どうも、ほっしーです。
そんな風に自分を責めてしまってませんか?
私も会社に行けなくなってうつ状態と診断されたとき、死にたいとか消えたいとかよくわからない感情にうなされていました。
実家に帰省して穏やかな時間を過ごさせてもらううち、「あのときなぜ、死にたいと思っていたのか」を考えていたら1つの結論に達しました。
死にたい人は、本当に死にたいのではなく、自分を変えたいのではないか?と。
「死にたい」は「変わりたい」
この人の自殺をとめることにばかり熱心になると、それは、この人の「死んで生まれ変わろう」とするせっかくの動きをとめてしまうことになる、ということである。
従って、われわれとしては、自殺を単純にとめるのではなく、それを象徴的な「死と再生」への過程としてすすめてゆくことを――実際の自殺を避けつつ――援助することを考えねばならない。
引用:こころの処方箋
私はシステムエンジニアとして働いていたとき、自分の想像していた環境とは違っていて「自分を殺さなければ」と、無意識に感じていたのかもしれない…と、この文章を読んだときに思いました。
私は結局「象徴的な死」を迎えることができず、実家へと帰省。
好きな仕事じゃなかったと思ってたけど、それは表面的な理由だったのかもしれません。
心の深部では、変わりたかったけど、変われなかった。ということなのかも。
自宅療養で象徴的な死を迎えた?
自宅療養をはじめてから、私はどこかのタイミングで象徴的な死を迎えたのかもしれません。
- システムエンジニアとして復帰しなければならない
- すぐにでも社会復帰しなければならない
- うつ病なんて甘えだ
明確にどこで? と言うことは覚えていないのですが、象徴的な死をどこかで迎えたんでしょうね。
死にたい死にたい、と言っておられましたが、いったい自分のなかの何が死んだのでしょうか」などと問いかける時もある。
堅い自分が死んで、少し柔軟性がでてきた、などと答えた人もある。
あるいは、崖の途中で草にしがみつき、何とか上へ登ろうともがき苦しんでいたが、思い切って両手を離すと、何のことはない草地に軟着陸し、そこには新しい世界がひろがっていた、と答えた人があって、感心させられた。
引用:こころの処方箋
「死にたい」は決してネガティブな理由だけじゃないのかも
「死にたい」と言う言葉はあまりにインパクトが強く、全く無関係の人がそう言っていても「じゃあ死ねば?」とは、簡単に言えないし思えない。
自分がうつ状態激しく死にたいと言う感情に悩まされていたからこそ、気持ちが痛いほどわかる。悪影響なほどにです(笑)
ただ、今回お話しした「象徴的な死」と言う概念は、強烈な「死にたい」のインパクトを和らげ、柔軟な考え方ができるのではないでしょうか?
死にたいと思っているけど、自分が変わろうともがいているんだろうな…
もちろん、本当に死んでしまっては元も子もないので十分に気をつけたいところですが、死にたいと感じているあなたはポジティブな方向に舵をきっているのかもしれません。
死にたいは絶対悪だと感じているなら、象徴的な死という概念を導入することで、自分と話し合いの場を設けてみてはいかがでしょうか?