本当は、協調性などほとんどなくていいのに、わが国ではこれがないと「生きていけない」と思い込まされてしまう。
ここには、すさまじいマインドコントロールが作用している。
協調性を強いる日本教から脱会してすでに何年経ったことか。
- 変わってるね
- 寂しくないの?
- おかしいんじゃない?
「協調性がないとこの世界では生きていけない」
本気でそう信じてた。だけど今はそうは思いません。
- 仕事も
- 人間関係も
- 生き方も
ここまでこれたのは、私に協調性がなかったからだと思うんですよ。
日本は無神教じゃない。周りに合わせる信仰やばすぎ
一般に馴染めない人が生きづらいのは、一般に馴染めなければダメだという日本教のせいですよ。
日本教の神を信じられない「不届き者」たちは
- 自分で起業をしたり
- フリーランスになったり
- 芸術の道に進んだり
- ニートの道に進んだり
…いや、これが独特だというのは日本教的な考え方かもしれません。
どんな生き方があっても良いのに、普通の生き方がある程度みんなの中で固まっている。
そしてその枠から外れた「不届きもの」は、無言の圧力に殺されてゆく。
この無言の圧力に耐え、自分を徹底的に貫く強さを持った人しかこの道では生き残れない。
なんと残酷なことでしょうか。
協調性のある人は、つまらない人が多い
容易にわかることであるが、協調性にはそれ自体としての道徳的価値はないのだ。
協調性のある人とは、「周囲に合わせられる人」にすぎない。
(中略)
与えられた状況が何であろうと、それを批判することなく受け容れることのできる人なのである。
とすれば、時には、協調性のないほうがいいこともある。
協調性っていい言葉のように解釈されますけど、日本においては「枠に収まりやすい人」でしかないんですよねぇ。
一般社会においてはそれで無難に生きていけるけど、人として面白みがない。
人間関係においての潤滑油としては素晴らしい役目を果たすも、1対1になると急につまんなくなる人が多いんですよ。
ま、あくまで私が関わったことがある人の範疇ですけどねw
協調性をなくしていけば、協調性が出てくる説
逆説的ですが、協調性を意識的に減らしていくことで協調性が出てくるような気がします。
というのは、協調性を意識すると「嫌いな人と合わせて生きていく」方向にシフトしがち。
つまり我慢の方向性なんですよね。
ネガティブな協調性を削っていくことで、好きな人とだけ関係を構築していくことになります。
好きな人というのは、以下のような特徴がありますね。
- 考え方が似ている
- 自分の知らない世界を知っている
- 一緒に居てお互い楽しい
たとえば、一般社会に対してコミュ障とか協調性がないと言われるオタクたちは、オタク同士ではとんでもない協調性を発揮します。
私の理想の人間関係はこれですね。
昭和だと、この考え方だったら行きづらかったでしょう。
でも今は、インターネットを使うことで好きな人と好きなことだけを突き詰めていく仕事のあり方が成り立つので。
一般社会におけるネガティブな協調性は必要ないんですよ。
オタクの密なコミュニティの協調性のみでも、生きていける経済圏は出来上がってきてます。
今はまだ、この権利を一部の人しか享受できませんが(発信力ある人ね)
ブロックチェーン技術が大衆に普及すれば、小さな経済圏を構築することはそれほど難しくなくなってきます。
たとえば、メンヘラだけのコミュニティで経済を回すことも不可能ではないと考えてますよ。
もう私は、もっともっと協調性のない人間になりたいよ
- 常識がない
- 子どもだ
- 言ってることが極端
信じている神が違うので、意見が割るのは当たり前。
分かり合おうとする必要もありません。お互いストレスが溜まるだけだしね。
私は普通にしてるつもりですが、日本教の人から見るとすごくワガママで、常識がないんだとか。
生きづらい人たちが私を見たときに
ほっしーみたいなやつもいるから、別に大丈夫じゃね?
そう思ってもらえるように、これからも今のスタンスを貫きます。
まぁ、私は私らしく生きようとした結果、この思考に至っただけなんですけどね…(笑)
みんな自分の個性を活かそうと思ったら、同じ方向になると思いますよ。
嫌いな人と付き合う時間は、心身ともに消耗するだけですから。
今はいろんな働き方、生き方がインターネットによって構築されたので、必ずしも嫌いな人と付き合う必要はないんですよん。
何が個性を尊重だよ。嘘ばっかじゃんw