満たされることのない承認欲求に絡め取られる人生は、まるで自分の人生ではないのではないかと錯覚するほどです。
人から認められることだけが自分の価値を決めるのでしょうか?
自分で自分の価値を決めるということも大切なことだと思いませんか?
承認欲求と自己承認
そうそう、承認欲求は満たされることがないので、いずれは自己承認の世界に入る。
承認欲求を満たすために出来るステップ。 : 双極性障害のコトいろいろ。 https://t.co/ZC3lGThXEw
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
Twitterに自撮り上げたりしてる人で、いいね沢山もらってもむなしい原因はこれだろうなぁ。
他人に承認されても、自分では自分を承認できてない。
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
ブロガーとしても同じ、そりゃ他人に記事を褒められるのは飛び跳ねるぐらい嬉しいことだけれど、その記事に納得がいかなかったらやっぱり満たされない。
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
おそらく、Twitterで自撮り画像を上げている方も、私のようにブロガーとして記事を書いている方も承認欲求としての大きなくくりの中では同じ苦しみにあるでしょう。満たされることがありません。
ブロガーの場合、それは大きなモチベーションともなりますが、同時に虚しい気持ちも襲ってくるものです。
例えば、有名な方に私の記事が拡散された時というのは認められたような気がして嬉しくてたまりませんが、その甘い蜜を経験すると、その人に喜ばれる記事を書こうとしてしまいます。
ほっしーさん、ブログ面白いなぁ。/ 双極性障害(躁うつ病)になって悪かったことばかりではありません。いいこともたくさんあります。 | ほっしーブログ https://t.co/elQpSvwbHf
— イケダハヤト (@IHayato)
でもこれってすごく危険なことで面白いと評価していただいた部分を消してしまう行為になるんじゃないかと…。個性が消えてしまうと思います。
舞い上がる気持ちを必死に抑えながら、自分がブログを書く目的、書きたいものは何かということを再認識して地に足をつけます(笑)
ありのままの自分を評価しよう
自己承認って言う言葉を使うと難しいような感じがするけれど、もっと噛み砕いて言えば「ありのままの自分を受け入れる」ってことだと思う。
それぞれの人に価値があるように。そこに存在していることこそに価値があるって思えるようになると人生はグッと楽になる。
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
双極性障害の私が病気と闘いながらブログを更新し続けることは、私の自己満足が大前提ですが、同じ病気の方に何かしらの勇気を与えていることもあるかもしれません。それが私の存在意義です。
そう、思うのです。実際は違うとしても…勝手に定義しちゃうんです。
ありのままの自分を評価するためです。
ほっしーのブログをみて元気もらってるよって言われることは嬉しいことです。
でもそれは満たされることのない承認欲求の範囲です。
ありのままの自分を見つめ、自分自身を認めてあげることでブログを続ける価値を見出しています。
他人が満たされない承認欲求に振り回されてるのは別にいいんだけど、自分がそうなっていないかは常に注視してる。強すぎる承認欲求は他人も自分も破壊しかねない。
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
例えば私が自分自身を認めることができなければ、誰かがブログを評価してくれないと続けられないという状態に陥ると思います。
ブログは孤独な仕事です。1人で淡々と更新を続け、自分が正しいと思う考えを発信してゆく。
そんなものを評価してくれ!というのは無理な話です。
評価されるまでには莫大な時間がかかるでしょう。私の実力もまだまだ足りません。
他人に承認を求めていたら、とてもじゃありませんけど足りないです。
もっともっと評価して欲しいです。承認欲求を満たすためにはあと100倍は評価して欲しいですよ(笑)
だからこそ、マインドとしてブログを書く意味。ブログを書くことで図る自己実現に価値を置くことが大切なのです。
目標と一定の評価
もちろん目標はもっと高いところにおいているんだけど、現在の自分の成果にも一定の評価を与えてあげるようにしている。
例えば、今日も1件ブログ更新できた!とか。
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
相当うつだった時は、誰かに1件リプライを送れた。というのでも自分を承認してた。
「この程度、病気じゃない時は余裕だったのに」とか思ったって自分が苦しくなるだけだし。
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
誰しも、理想の自分というものがあると思います。
それはそれとして、現在の自分を評価してあげることも忘れないで下さい。
理想と現実のギャップに潰される人は、理想ばかりを追いかけて現在の自分に全く価値を感じていないことが多いです。
極論ですが、言ってしまえば別に何も実現できなくたっていいんですよ。
生きているだけで何かしらの社会貢献はしているわけです。
働いてなくてもお金は使わないと生きていけないので消費活動はしているわけです。
経済を潤しているひとりとして十分に価値があると言えるでしょう。
例えそれが他人のお金であっても、間接的とはいえ使っていることに違いはありません。
他人と比べる無意味さ
自分が普段している生活の中で、ほんのちょっと5%ぐらい頑張ったらできることができたなら褒めればいいんじゃないかな。
「あの人はこんなことできてるのに…」とか思わなくっていいんだよね。
意味がないんだよなぁ。他人と比べることって…。— ほっしー (@hossy_fe_ap)
自分より優秀に”見える”人と比べて落ち込んだり
自分より劣っているように”見える”人と比べて優越感に浸ったりいずれも”そう見える”だけであって、実際にどちらが優秀だなんて図る手段はないし。
— ほっしー (@hossy_fe_ap)
満たされることのない承認欲求に振り回されると、他人が目につきます。
他人を比べて相対的に劣っているように感じたり、自分のほうが優れていると感じたり…まったくもって無意味です…。
だって、自分は何も変わっていないですから。
他人をいくら気にしたところで、自分は前に進んでいません。
また、他人との比較は絶対に不可能です。
同じように見える成果でも複雑な要因が絡み合ってできあがっているものなので、比べることはできません。
他人と比べることは絶対に不可能であるという思考に至ると、他人に対して素直な気持ちで尊敬の眼差しを向けることができ、他人を認めることができて素直に教えを請うことができます。
それは結果として、自分に良い影響しかもたらさないので、他人との比較が不可能であるという結論付けは大切なことだと私は思います。
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