こんにちは、あつのりと申します。
私はメンタルを崩して2回社会からドロップアウトしました。
- 1回目は大学受験のつまづき。
- 2回目は社会人からメンタル崩して2年10ヶ月の療養。
この2つを分けて語ろうと思います。
大学受験の失敗を皮切りに、良くないことが続いた
18才のころ私は、地元の国立大学を受けました。
結論から言うと、受験に失敗。
アルバイトをしながら、次の年に向けて浪人生活をスタートさせました。
しかし、いざ浪人生活をしていると、体が思うように動きません。
当時、家で勉強を集中してできるように時間割を書いた覚えがあります。
通信教育の教材を買って勉強しました。でも一切、手がつかなかったです。
アルバイトはハンバーガー店でした。朝が早く、午前6時に出勤し、昼12時に退勤。
先輩がとても苦手だったことを覚えています。
- 挨拶をしても返してくれない
- すごい暴言を吐かれる
さらに、オーダーも覚えきれませんでした。
うまくいかないことが続いて、無意識に自分を追い詰めていった気がします。
「無意識に」と書いたのは、当時自分でも、自分を追い詰めていたことに気付かなかったのです。
それで、もう自分はだめな人間だと思い始めました。
うつの兆候か? 2つの身体的な精神的な症状に気付き始めた
1.力が抜けるように、頑張り切れなくなってきた
高校時代の私は、こんな精神を持っていました。
だから、自分にとって難しいこと、苦手なことは努力すれば超えられるのだと考えていました。
今、考えれば恐ろしいことです。
簡単にいえば、どんな人でも、私でも、努力をすればウサイン・ボルトのような、世界一速い短距離選手になれるのだと考えていたのです。
これはしんどい。努力すれば他人になれる。自分を否定しているような気がします。
アルバイトで、オーダーが覚えきれないのは努力が足りないせいだからと思いました。
だから家で練習しようと考えました。
紙に連続したオーダーを書いて、大量の注文がきたことを想定してイメージトレーニングをしたのです。
でもいざ本番となると、まったく覚えきれなくて失敗して無理。
と、考えていました。ここから悪循環に陥っている気がします。
つまり努力する→出来ない→自己嫌悪(出来ない自分を認めない)→自己嫌悪になりながら努力するというサイクルです。
このときの私は、苦手だから辞めるという考えが一切なかったのです。
ここまで書いてみて
うん?頑張っているのではないか、頑張りきれているのではないか
と思った方もいるかもしれません。
自分も今、書いてみてそのように思いました。
でも、当時の私にとっては、これでも頑張りきれていない、努力が足りないと思っていました。
2.見えない接着剤。 ベッドから起き上がれない感覚
これは苦しかった。
どんなに自分の心の中で
早く起きろ、起きろ
と叫んでもなぜか動かない。
お昼がしんどくて寝ているときに、
いつまで寝てるの。明るいときは起きなさい
と叫ぶのです。
このときに、
明るいときに起きたほうがいいのは分かっているよ。でも起き上がれないだよ。どうしろっていうだよ。
とベッドにうつ伏せになって苦しみました。
あれは、ベッドと自分の体に見えない接着剤でくっついている感じでした。
僕の気持ちを解説してほしい。自分は何かしらの病気なのでは?
この2つの症状から、自分の中が何かおかしいと感じました。
それでインターネットで調べてみました。
最初はどこかで聞いた「燃え尽き症候群」という言葉を検索したと思います。
受験勉強が終わって気が抜けて、やる気が起きなくなった。これはきっと燃え尽き症候群なのだと。
そこから調べていくうちに「うつ」や「心療内科」という言葉にたどり着いたと思います。
なるほど、心療内科とは精神を崩した時に、行くところなのか
と、知りました。そこで、近くに心療内科がないかと調べると、車で10分ぐらいのところに近くにあるではないか。さっそく行くことにしました。
親に黙って行きました。ちょっとドライブに行ってくると。
それほど、親に話すのが怖く恥ずかしく、きっと優等生だった自分のままで親には通しておきたいと思ったのでしょう。
初診のとき医者からは
気分が落ち込んでいる状態だと思います。それが長く続いているだと。次カウンセリングを受けてみますか
気分が落ち込んでいる状態が長く続いているってわかっているけど、自分の状態に名前をつけてほしいなぁ。
解説してほしかったのです。釈然としない気持ちだったのです。
確かに病名がつくほどでもないのはわかるのですが。
カウンセリングは効果があったように感じた
何を話したかはまったく覚えていません。
ただ、カウンセリングの前後の気分は覚えています。
カウンセリングが終わりクリニックを出たときに、モノクロのように見えた外の景色がカラーになって鮮やかだった記憶があります。
カウンセリングを繰り返し受けて、少しずつ回復していきました。
進路を変えました。
大学ではなくコンピューター系の専門学校に行くことに決めたのです。
大学で学びたいことはありましたが、受験勉強をしているとまったく手がつかない…。
そして、そもそも大学に行く気がなくなってしまったことに気づきました。
自分の中に残っているものはないか?を問うと「パソコンが好き」というのがありました。
その好きという気持ちを利用して、パソコンの専門学校に行こうと考えたのです。
カウンセリングで進路を決めたことを話すと、心理士からこのようなことを言われました。
あなたには、能力がないわけではないですよ。あなたは進路を決めるという能力がある。これは立派な能力なのですよ。
そうか、この決めるという能力をこの浪人の1年間で回復していったのかもしれない
専門学校に行った後、しばらく心療内科に通わなくなりました。
人によっては、症状が軽度なときに行くと効果がないどころか返ってイライラしてしまうこともあるかもしれません。
ほっしーはフラットなときにいってイライラしました(笑)
順調に回復したと思われたが…悪夢はまたやってきた。
次は2回目のドロップアウト。
こ社会人に2年目のとき、私は自傷行為をしないと納期が間に合わせられないというくらい追い込まれることになります。
このころ、また心療内科に通うことになりました。次は薬をもらい、カウンセリングを受けました。
心療内科に通いながら仕事を続けていました。仕事は新聞折り込みチラシの製作。
どちらかというとデザイン系です。
締め切りが厳しい業界で、私はいつも焦っていました。
いつも上司にデザインをチェックしたらだめだとなり、
繰り返し見せてもだめだとなり、
そうやっていくうちに、自己嫌悪に落ちてきました。
だんだん焦りがひどくなり、心が不安定ですっきりしない気持ちになってしまいました。
そこで自傷行為を覚えてしまいました。この行為をやると、その瞬間すっきりするのです。
心を撫で下ろすという感覚かと。
自傷行為がクセになってしまった
これがクセになったのか、とうとう仕事中にやりだしたのです。
追い詰められ、キーボードを打てなくなりマウスすら動かせなくなるくらい手が動かなくなりました。
これは、最初のうつで体感した「ベッドから起き上がれない」感覚と似ています。
どんなに動けと命令しても動かないのです。しかし締め切りは迫ってきてます。
そこで私は、トイレに行ったふりをして隠れて自傷行為をしたのです。
するとすっきりして、マウスが動かすことができます。
締め切りに間に合わすために自傷行為を繰り返しだしました。
無意識に「仕事を辞める」と口から出たとき、自分が危険な状態にあることに気がついた
どんどん心が荒れ果てていきます。
とうとう仕事を辞めることを決意。
辞めます
上司に辞めることを告げるとき、自分では理解できない自分が現れたのです。
その日、いつもとは違う仕事を振られました。
慣れない仕事に混乱し、さらに自分の中で
「やばいこのままでは死ぬ。どうしよう」
と思ったのです。
私は上司を呼び、話があると声をかけ、面談をお願いしました。
このときついに私は辞めたいと話しました。
でも、辞めるつもりはなかったのです。
でも、辞めると言い出したのです。
意味がわかりません。そして涙も流しだします。
自分が意図したことではないのに。
自分の意思とは反して、本能的に辞めたいと言い出したのです。
このとき、私は私の体と心のことをまったく理解出来ていなかったのだと思います。
むしろ、上司に辞めると言い出したことで、初めて私の体と心がひどくおかしくなっていると気付いたのでしょう。
療養生活のスタート
1.調子がいいとき、まずは犬との散歩から
仕事辞めてから、2年10カ月の療養生活がはじまりました。
まず、昼夜逆転しました。
夜に眠ることができなくなりました。
すると朝方に眠りだすのですが、目が覚めたら、次はベッドから起き上がることができなくなりました。
ずっとひきこもり、体調がいいときは、昼間にのんびり犬と散歩からスタート。
そう、このときの生活でたぶん回復さえるものの一つに犬の存在は大きかった気がします。
この犬のおかげでなんとか外に出ることができました。
犬が私を外に連れ出したといったほうが正確です。
2.次に、マラソンの練習をしました。
なぜいきなりマラソンを?と思うかもしれません。
これはテレビの影響があります。あの年は2011年。
27時間テレビでナイティナインの矢部さんがマラソンを走っていたのを見て、とても感動したのです。
体調崩した岡村のために走るみたいなことを言っていたと思います。
矢部さんに勇気をもらったのです。
マラソンの練習は、まずはウィーキングから。そしてランニング。
すると、昼夜逆転の生活が元の通り戻ってきました。おかげで増えすぎた体重もだんだん減りだしました。
ここまで書いてきて、もしかしたら疑問に思った人もいるでしょう。私も同じことを思いました。元気ではないかと。
ここが自分の場合の難しいところ。実は心療内科に行った時、ちゃんと病名がついておらず、うつってほどでもなかったのだと思います。
気分変調性障害かもしれませんねぇ~
とすごく曖昧な感じで言われました。
「言われました」なのです。診断ではないのです。
でも、気分はきつい。
気分変調性障害とはうつ病よりはひどくはないけれども、抑うつ状態が長く続く状態のことを言うそうです。
うつ病よりはひどくはないけれども、抑うつ状態は長く続いている…。
この曖昧な感じがけっこう苦しく、ときたま自己嫌悪に陥ります。
つまりは、私の中でも
これぐらいできる元気があるのだから、もう社会復帰をしてもいいのでは
と問い詰めながらでも
今は社会復帰が出来る状態じゃない
と思う自分もいる。
自分の体の中がダブルスタンダードの状態だったのです。
こんな悶々とした状態が2年10カ月続きました。
割愛しますが、この期間、ずっと付き合っていた恋人に振られ、死にかけ、回復して、また別な人が好きになり付き合ったけれどもすぐ別れ、死にかけたということがありました。
このとき支えてくれたのは、友人でした。
荒れ果てていた私に声をかけてくれたり、相談に乗ってくれました。
別れ話がいっこうに進まなかったため、仲裁に入ってうまく丸く別れられるように調整してくれたり…。
とても迷惑をかけたけれども、とても感謝しています。
少しずつ回復しだした私は、就職活動をすごい小さなステップで少しずつはじめました。
まず目標を決めたのです。
ハローワークの駐車場まで来たら良しとしよう。ここで帰っていい。
私はハローワークに入ることすらできませんでした。
求人を見るいくことすら怖かったのです。
でも友人が一緒に行ってみようと誘ってくれてようやく入ることができました。
ハローワークに入ることにまず慣れようと思ったのです。
- まずは、駐車場にいければOK。
- 次は玄関までに行ければOK。
- 次は求人を閲覧するパソコンに行ければOK。
最終的には、自分の好きなことを仕事にすることができました。
それは地図です。地図が好き。この気持ちが履歴書を郵送する勇気を与えてくれました。
地図を製作する会社に入社することができました。
現在は、私はその地図製作の会社を辞め、有給休暇中。
3年6カ月勤めましたが、ずっとこの場所では仕事はできないと直感的に思い、辞めました。
なんとなく、ずっとこのままここで仕事をすると体調を崩すかもしれない、死ぬかもしれないと思ったのです。
私は、これから働き方生き方を変えてみようかと思っております。
もしかしたら組織の中で仕事をするというのが向いていないのかもしれない。
ならば思い切って環境を変えようと。
また、住む場所から選んでから仕事を変えてもおもしろいのかと。
現在の私は、以前療養中のときの無職状態とはまったく違います。驚くべきことです。成長しました。わくわくしています。
精神を病んでしまったのは苦しいことでした。
でも同時にほかの人とはレールを外れた世界や環境や考えを見ることができました。
これはとてもいい経験でした。
レールから外れるというのはチャンスだったのかもしれません。
大丈夫、これはあなた自身がほかの人の人生ではないあなた自身の道を選んだことだから。
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