どうも、双極性障害と戦うブロガー星野 良輔(@HossyMentalHack)です。
双極性障害となってそろそろ2年でしょうか。
ブログもはじめて2016年10月で1年になります。
これまで双極性障害をはじめとする精神疾患、またそこから横展開をしてマイノリティとしてどうやって生きていけばいいのか考えてきました。
ブロガー、メディア運営者というある意味マイノリティ的な仕事をするなかで大切だと感じることは
- マジョリティの価値観を捨てること
- 人からの評価をあきらめて評価軸を自分に持つこと
マイノリティとマジョリティ、またどちらの立場にもはびこるマジョリティ評価軸について考えてみたいと思います。
双極性障害という病
双極性障害という病。ハイとローが交互にやってくる病。
マジョリティが作り出した世界では生きることが非常に難しい。
マジョリティの評価基準から外れたものを「障害、奇人、狂人」と扱うならば、悲しくも上記に該当しますね。
— 星野 良輔@双極性ブロガー (@hossy_fe_ap)
双極性障害について詳しくは下記ページをご覧頂きたいのですが、ツイートの内容通り、ハイとローが交互にやってくる厄介な病気です。
マイノリティが「正常」とされる世界では、私は異端児です。
これはいくら双極性障害が認知されたところで評価を変えることは難しいでしょう。
もしかするとどうだろう?精神疾患が客観的なデータを示せるようになればマイノリティの仲間入りをすることができるかもしれませんね。
普通の病気って客観的に指標があるので、「マジョリティ的な病気、すなわち一般的な病気」の仲間入りをするじゃないですか。
精神疾患は、いつまでたっても主観的な診察しかなく、○○だからうつ病だよねといったことがないので、マイノリティの病気なのですよ。
マイノリティ的な仕事では全く支障がない「双極性障害」
多様な働き方がある中で、例えばブログを書いて生活をしていると、仕事にも日常生活にも「双極性障害」は全く支障にならない。
私の場合なんて扱うテーマが双極性障害なので、むしろメリットしかない。
— 星野 良輔@双極性ブロガー (@hossy_fe_ap)
私の仕事はブログを書くこと。ライターとして執筆活動をすることです。
収益に関してはブログ運営報告のほうに有料で公開しているのでここでは割愛します。
さて、多様な仕事が認められるようになってきたとはいえまだこの「ブロガー、ライター、メディア運営」という仕事はマイノリティ的と捉えることができると思います。
「ブログなんか書いてないでさっさと就職したらどうですか?」なんて言われる有様ですからね。
デジタルデバイドをを身近に感じることができて恐怖したことを覚えていますが、それはともかくとして……。
私の仕事は基本的に自由です。
家でパソコンパチパチやってるだけなんで。
納期も基本的にはありませんし、悠々自適に見えるかもしれません。
が、仕事量が収入に直結するので、サボればその分生活は苦しくなります。
ただ、出勤もなければ監視する目もなく、調子悪くなればすぐに休むこともできるので「双極性障害」が起こす「障害」については、少しの生産性低下以外に問題ありません。
いつまでもマジョリティ層の価値観だから心が苦しいのですよ
それはともかくとして、「マジョリティー層」に戻って生活をしなければいけないという価値観から抜け出さない限り「障害」は一生消えない。
障害は障害だし、狂人は狂人。常に評価軸がマジョリティー層にあるから。
マイノリティーである人々も何故か評価軸はマジョリティー。
— 星野 良輔@双極性ブロガー (@hossy_fe_ap)
なにかしらの障害を持って一時撤退をし、体制を立て直し、またマジョリティの障壁を破ろうとするも弾かれてマイノリティに堕ちる。
双極性障害を例に取ってみれば、マジョリティとマイノリティを行ったり来たり。(ハイとローが入れ替わるので仕事が続かない)
これらはすべて「既存の仕事」しか「知らない」から起こる悲劇だと私は思います。
誰かに雇われて働くことが当たり前になっているので、マジョリティ的な思考しかできない。
マジョリティでこそ評価されることが人生の喜びであると頭にこびりついているわけです。
迫害を受け入れてしまうマイノリティたち
評価軸が誰しもマジョリティ層にあるために、マイノリティの迫害が起こる。またその迫害をマイノリティ側が受け入れる。
ある程度は「仕方がない」と思ってしまうんだろうなぁ。
— 星野 良輔@双極性ブロガー (@hossy_fe_ap)
私もはじめて双極性障害となったとき、「これで俺の人生は終わった。さぁ、いつ死ぬかな」と思いました。
これは、もうマジョリティで生きていくことは困難になった=生きる価値がなくなった。という思考。
非常に短絡的で視野が狭く、危険な思考だと思います。
しかし誰しもが、マジョリティの対極にマイノリティが存在していると認識しているので、迫害を受け入れてしまうのです。
わたしは受け入れません。ん?と思ったら、遠慮なく聞きますよ。
マイノリティたちの傷の舐め合い
だからこそ人から評価されることに喜びを覚えているマイノリティはますます生きづらい。
何度も言ってきたように、マジョリティ中心に形成された評価軸の中で私たちは生きてるから。
そこにマイノリティの優しい価値観を持ち込んだとしてもそれは傷の舐め合い程度にしかならない。
— 星野 良輔@双極性ブロガー (@hossy_fe_ap)
マイノリティたちは独自の価値観を形成することができません。
常に「可哀想な私たち」に見えてしまうのは、マジョリティの価値観を継承してしまっているからです。
でもそれは無理もない。先天的なものを除き、ほとんどの人はもともとマジョリティとされる人間だったから。
心に深く刻まれたマジョリティ思考の上にマイノリティの価値観を上塗りしたところで、メッキは簡単に剥げてしまうわけです。
障害者は健常者の感動ポルノとして消費される
私たちは、障害を悪いものとしてとらえてきました。障害はマイナスである。そして、障害と共に生きることは素晴らしいことであると。 障害は悪いことではないのです。
そして、障害があるからといって、あなたが素晴らしい人間だというわけでもありません。
みなさんも、両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。
こういう画像はたくさんあり、私はそれらを「感動ものポルノ」と呼んでいます。
「ポルノ」という言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、ほかのグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。
障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです。
引用:ログミー
障害があるから障害とともに生きることは素晴らしい。
この価値観なんてまさにマジョリティそのものです。
「障害」とは言葉通り、生きる上で邪魔なものなわけですから、マジョリティ層の人たちはマイナスに捉えます。
そのマイナスを抱えながら「普通に生きるマイノリティ」が「傷を負った戦士のマジョリティ」に見えるわけです。
感動ポルノを甘んじて受け入れてしまう障害者もつまるところ承認を求めているのです。
なぜなら、マジョリティの価値観に染まっているから。
そもそも「マイノリティ」も「マジョリティ」もおかしい
正直に言って、評価軸が変わらないかぎりはマイノリティの迫害の歴史は終わらない。
マイノリティとマジョリティというすみ分けが本来意味不明なんだけど、もう出来上がっちゃってる。
「異端」という言葉も人間が本来普遍的ではないのに存在すること自体がおかしい。
— 星野 良輔@双極性ブロガー (@hossy_fe_ap)
「正常」と言われる人たちが自分たちのことを「正常」だと勘違いしている限りはマイノリティが報われることはない。
人間は本来平等じゃない。不平等で不完全で悪い意味でオンリーワンの存在。
— 星野 良輔@双極性ブロガー (@hossy_fe_ap)
誰ひとりとして同じ人間は存在しない。違う価値観を受け入れよう
なんてキレイ事を言っておきながら、マイノリティとマジョリティという言葉は存在するわけです。
なんだかんだ言いつつも、しっかりと「すみ分け」ができている。
精神疾患を例に取って言えば「健常者」と「障害者」ですね。
これはすべての評価軸がマジョリティ側に権限があることから起きるのでしょう。
マジョリティ層で問題を起こさずに生産できる人間のことを世の中では「正常な人」といいます。
個性としてそのマジョリティ層に適合できなければ「障害」とみなされる。
それが今の社会です。
しかし正常の評価軸はブレブレです。
時代とともに評価軸はズレる
第一次産業が盛んだったころ、精神疾患者は今よりも圧倒的に数が少なかったに違いありません。
細かいことを言えば、ライフスタイルの変化、ITの台頭によるストレス社会の到来、食事の欧米化などキリがありませんが、評価軸がズレていることによる「障害認定」のハードルの低さもあるでしょう。
第一次産業のビジネスには今ほど「知的能力」が求められません。
どちらかというと肉体を使った労働が主流。
発達障害や軽度の双極性障害、うつ病であれば、「障害」ともみなされないわけです。
極端な話、人と会話できなくても木は切れます。魚は釣れます。畑は耕せますから。
マジョリティ評価軸から抜けだそう
マジョリティの価値観を捨てる
双極性障害となってすべてを失ったとき、これから先どうやって生きていけばいいのか暗いトンネルの中で過ごしました。
一筋の光を見つけるまでに、ほぼ1年を要してしまったわけですが、私にとっては必要な時間だった。
マジョリティの価値観を捨てるにはやはり、マジョリティ層から離れて自分自身と向き合うこと。心の声を効くことに限ります。
人は結局のところ理性ではなく感情で動くものなので、自分の中に答えがあるんですよ、最初から。
人からどう思われたいかではなく自分がどうしたいのか
人から承認されたいという欲はなかなか消えないものですが、マジョリティ層の価値観、評価軸を持ったままではマイノリティは苦しむ一方です。
例えば、うつ病の人が社会復帰してマジョリティの世界で働くことはそう簡単な話ではありません。
当事者の私からしてみると、プロスポーツ選手のような一握りの人間しかなれないのではないかと思うぐらいのハードルの高さです。
社会復帰に関しても元マジョリティの私達が羨望の眼差しを向けるから苦しいのです。
冒頭でも軽く触れましたが、マイノリティ的な仕事もある。
また、精神疾患者であれば生活にかかるコストを抑えつつ、国から年金をもらうことだって可能な権利があります。
マジョリティ層から距離を取り、ゆっくりと、ゆっくりと考えることです。
マイノリティでもマジョリティでもない自分らしい生き方を。
マイノリティたちはどこへ向かうのか
希望的観測にすぎないのかもしれませんが、AIがもっと発達し、人間の仕事を代替していく。
外貨はすべて機械に稼がせて人間はベーシックインカムで最低限の生活が保証される。
何光年も先の話に思えるかもしれませんが、意外と近くにもう来ています。
社会実験として、ベーシックインカムの実験を行っている国もあるんですよ。
世界で初めてベーシックインカム制度の導入実験を決めていたフィンランドに関して、来年から導入実験が開始となることが本決まりとなった。
フィンランド政府が発表した実験内容によると、フィンランドの全成人の中から無作為に2000~3000名を抽出して対象者とし、その上で、来年から2年間に渡って対象者に対して月額560ユーロ(約6万5000円)を支給することで、従来型の社会保障制度が良いのか、ベーシックインカム制度の方が良いのかその効果を見極めることを予定しているとしている。
引用:フィンランド、ベーシックインカム支給実験の詳細が確定・実施開始は来年から
仮にこのような世界が本当に到来すると考えると、マジョリティもマイノリティもどうでもよくなります。
結局のところ、正常に働けるのか?というところにすべての主眼が置かれているような気がする。
勤勉さが素晴らしいという価値観は日本に根付いているからこそ、海外諸国よりもマイノリティの地位が日本は低いのでしょう。
私はAIが根こそぎ人間の仕事を奪うことに大賛成です。
マジョリティがマイノリティを理解するよりも「マジョリティ、マイノリティ」という言葉そのものを死語にしてしまったほうが早いから。
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