いじめがなくならないのは、「学校」があり「教師」がいて「クラス」があるから。
小さな共同体の中で、監視者に目をつけられることなく地位と名誉を手に入れようとするなら、知恵のたりない子供は他人を貶めることを考え出す。
— ほっしー@メンタルハッカー (@hossy_fe_ap) 2018年3月10日
人間は共同体を維持するために、異端者を祭り上げて排除することに快感を覚えるって脳科学でわかってる。
だから根本的にいじめをなくすのは「学校」が今の形のままじゃ無理。
学校はいじめの温床となる。
— ほっしー@メンタルハッカー (@hossy_fe_ap) 2018年3月10日
社会的排除の標的となる人に共通するのは、「一人だけいい思いをしていそうだ」「得をしていそうだ」「一人だけみんなと違う」「一人だけ異質だ」という条件を持つという点です。
よく考えてみてほしいのですが、基準が任意に設定できるなら、誰であってもこの条件に合致します。
ようするに、誰もがいじめの標的になり得るということです。
学校の先生方にとっては心の痛むことと思いますが、いじめはいけないことだと、どれほど口頭で伝えようとも、快楽を奪われまいとする子どもたちは、先生に見つからないようにいじめるにはどうしたらよいかと、知恵を絞ることでしょう。
教師は教師でで自分のことで精一杯で、生徒ひとりひとりに構うわけがない。
モンスター親も多いから、無難に過ごす先生も多いだろうね。
先生自体がうつ病になるような時代だし。
ますます「学校」そのものがオワコン化してる。
— ほっしー@メンタルハッカー (@hossy_fe_ap) 2018年3月10日
- 部活が忙しくて休みがない
- 授業の準備が全くできない
- モンスターペアレントが多くて、厳しい指導ができない
- 結果、つらい
こういうのって、大人よりも敏感に感じ取るんですよ。
傷つきやすいタイプの子はもっと敏感に感じ取る。
先生に迷惑かけちゃいけない…
そうやって生徒が追い込まれていくんですよ。
いじめもうつ病も、学校が作り出しているとしか思えませんなぁ。
これからの時代、学校はますます選ぶ理由がない
学校教育の淵源は国民皆兵制にまでさかのぼります。
富国強兵を是とした明治政府のもとでなら尚更、国民は均一に教育され、団結して一丸であることが望ましかったでしょう。
個性はむしろ戦闘の現場ではリスク要因となります。
(中略)
これに関しては、戦後もこの基本的な理念が継承されていったようです。
高度成長という経済的なフィールドではこれは大いに奏功し、一時、日本は世界第2位の経済大国に成長しました。
もはや戦闘に勝つことを目的として持つことを許す社会ではなかったはずですが、均一で良質な人材を大量生産する学校のスタイルそのものは変わらず、そこで鍛え上げられた人が企業「戦士」として能力を発揮できる時代が長く続きました。
社会の歯車になって生きていきたいなら、学校で学ぶ理由はある。
でも、クリエイティブに生きていきたいなら、学校に行く必要性は薄くなる。
組織が保守的であればあるほど個性は邪魔になるからクリエイティブとはトレードオフ。
そして…保守的でない組織を探すほうが、日本では難しい。
— ほっしー@メンタルハッカー (@hossy_fe_ap) 2018年3月10日
学校教育は、「正解」があって「問題」を解かせます。
残念だけど、社会に出ると正解はありません。
正解と思えるようなものは、あとで振り返ってみたら…という結果論でしかないんですよ。
AIに刈り取られそうだよねぇ…w
いじめは集団に属している以上、なくならない
これは学校に限った話じゃないけども、群れてる以上、その共同体を維持するために排除される人間は「材料」として必要です。
これはもう、人間の脳に組み込まれた機能なので仕方ない。
ただ、学校は輪をかけてひどい。小さな社会に閉じ込められますからね。
- 同じ学校
- 同じクラス
やっぱり、学校はいじめの温床としか思えないなぁ。
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